大阪地方裁判所 昭和24年(ワ)636号 判決
原告 湊俊夫
被告 入江和一 外一名
一、主 文
被告等は原告に対し大阪市東住吉区北田辺町七百六十四番地上木造瓦葺二階建北向二戸建一棟の内西側の一戸建坪十二坪を明渡し且被告岡田宗一は昭和二十三年十一月一日以降被告入江和一は同年十二月一日以降右明渡済迄一ケ月金四百六円二十五銭の割合の金員を支払うことを命ずる。
訴訟費用は被告等の負担とする。
此の判決は原告に於て被告入江和一に対し金二万円、被告岡田宗一に対し金二千円又は夫々之に相当する有価証券を供託するときは各仮に執行することが出来る。
二、事 実
原告訴訟代理人は主文第一、二項同旨の判決及び担保を条件とする仮執行の宣言を求め、其の請求の原因として「原告は昭和十七年二月頃其の所有に係る主文第一項記載の建物を畳、建具附にて被告岡田宗一に対し賃料一ケ月金六十五円毎月末日払の約で賃借権の譲渡、転貸及び造作の変更を禁ずる特約附にて期間を定めず賃貸し、其の後地代家賃統制令に基く物価庁告示に従い、右賃料を昭和二十二年九月一日以降一ケ月金百六十二円五十銭、昭和二十三年十月十一日以降は同じく四百六円二十五銭に増額した。所が同被告は昭和二十三年十一月二十一日頃原告の承諾を得ることなくして右賃借権を被告入江和一に譲渡し、爾来被告入江に於て之に居住しているので原告は同被告等を相手方として大阪簡易裁判所に家屋明渡の調停申立を為したが被告等が応じなかつた為昭和二十四年四月二日已むを得ず右申立を取下げた上、同月十一日附翌日到達の書面にて被告岡田宗一に対し賃借権の無断譲渡を理由に賃貸借契約解除の意思表示を為したが同被告は其の後も建物返還の義務を履行せず又被告入江も原告に対抗すべき何等の権原なくして右建物に居住して原告の所有権を侵害している。仍て茲に被告等に対し右建物の明渡を求めると共に被告岡田に対しては昭和二十三年十一月一日以降右明渡済迄右約定に基く賃料及び損害金、被告入江に対しては同年十二月一日以降右明渡済迄之と同率の損害金の各支払を求める為本訴に及ぶ」と陳述し、「被告等主張事実中被告岡田より東京都転勤を理由に賃借権譲渡の承諾を求められ原告の母シズヨに於て一旦之を承諾した後之を撤回したこと及び原告が被告主張の書面を以て譲渡不承諾の意思表示を為したことは認めるが其の余は否認する。原告は妻の実家なる山口慶太郎方の一室を借受けて居住して居り、同家よりも明渡を求められ尚原告の勤務先が大阪市内に在る為同市内に住宅を物色中であつたので、被告岡田の要求に対し之を拒絶していたが、昭和二十四年十月中旬に至り先に移転家屋の物色を依頼していた知人から賃借の契約が殆ど成立の見込である旨の報告があつたのでシズヨは之を被告岡田に伝えたところ同人は原告が其の家屋に移転すると同時に金五万円を提供することを約し尚被告岡田が本件建物の賃借権を譲渡する相手方は他人の妾で家屋を大切に使う人であるから承諾せられたいと懇請したのでシズヨも之を承諾した。所が其の後原告の期待した家屋の賃借は不可能となつたので原告の妻貞子及び母シズヨは同月下旬被告岡田に対し右承諾の意思表示の撤回を申出でたが其の際は被告岡田に於ても右妾との譲渡契約は不成立に終つたので他に譲受人を物色中であつた。従つて同被告より被告入江に対し賃借権の譲渡された同年十一月下旬にはすでに原告の承諾は撤回されていたものである。仮にそうでないとしても、被告岡田が承諾を求めるに付理由とした東京都転勤の事実は虚偽であつたから原告の承諾は詐欺に因る意思表示であり、従て右撤回の意思表示は詐欺を理由とする取消の意思表示としての効力を生じたものである。又被告等の(二)の主張に付ても、民法中賃貸借に関する規定及び借家法は善良なる賃借人の保護を目的とするもので、被告岡田の如く賃借権の譲渡により労せずして多額の利益を取得した者を保護するものでなく、又被告入江に於ても賃借権を譲受けるに付ては当然所有者たる原告に承諾の有無を照会すべきであつたもので、権利濫用の法理を適用すべき場合ではない。」と述べた。<立証省略>
被告等訴訟代理人は「原告の請求を棄却する」との判決を求め、答弁として、
「原告主張事実中被告等の為した賃借権譲渡の日時及び右譲渡に付原告の承諾を得なかつたこと、並に被告入江が被告主張の建物を不法に占有し原告の所有権を侵害していることを否認し、其の余の事実はすべて認める。右賃借権譲渡の日は昭和二十三年十月三十一日であつた。而して原告の請求は次の理由により失当である。(一)被告岡田は昭和二十三年九月当時東京都に在る会社に勤務して居り月二、三回帰阪する状況で経済上不便であつたので移転を計画し其の移転料捻出の為に賃借権の譲渡を考えて同月二十日頃より度々原告方に右譲渡の承諾を求めたが、原告の母シズヨは之を拒絶した為同被告も一旦移転を断念したところ、同年十月十日原告及び右シズヨから右譲渡承諾の申出があつて面談を求められた。所が翌十一日には原告名義で譲渡不承諾の書面が到達したので十二日原告の母シズヨに面会したところ右書面は承諾の意思の決定前に発送したものであるとして更めて譲渡承諾の意思表示があり、被告も其の代償として譲渡代金に応じ相当の金員を原告に贈ることを約した。そこで同被告に於て譲渡に奔走し、同月三十一日被告入江との間に金十七万円で譲渡契約が成立し、内金十万円を受取つたので其の一部を原告に贈るべく準備中十一月初旬原告の母より突然譲渡承諾の件を中止する旨の申出を為し其の後は被告より屡々依頼したに拘らず之に応じないのであるが斯様に原告に於て一旦譲渡を承諾した以上其の後に於て一方的に之を飜えすことは出来ないものであつて、被告等の為した賃借権譲渡は飽くまで原告の承諾の下に為されたものである。(二)仮にそうでないとしても、被告岡田が本件二戸建一棟の内の一戸を賃借した当時原告は他の一戸に居住していたのであるが、戦争の激化に及び原告は其の居住の一戸を訴外高野某に売却し現住所に移転し、其の際被告岡田に対しても買取を求めたが手許不如意の為之に応ずることが出来なかつたもので、原告としては再び之に帰住する意思は無かつたのであり、空襲中此の建物の防衛に当つたのも勿論同被告であつた。而も戦後の借家難の折柄建物賃借権は高価に売買されている実状に在り、法律上も寧ろ建物所有権以上に保護されて居り、若し被告岡田が引続き此の建物に居住しているとすれば原告に於ても明渡を求めることは至難であるに拘らず、被告入江に賃借権の譲渡されたのを幸として、之により著しい損害を被る等の正等の理由がないに拘らず承諾を拒む如きは信義誠実の原則に反し権利の濫用に他ならないから本件賃貸借契約解除の意思表示は無効である。」と述べた。<立証省略>
三、理 由
原告が昭和十七年二月頃本件建物を被告岡田に対し原告主張の賃料の定めにて賃貸し其の後賃料が其の主張の通り増額された事実並に被告入江が被告岡田より賃借権を譲受けて現在之に居住している事実はいずれも当事者間に争が無い。
仍て先ず右賃借権譲渡の日時及び之に付原告の承諾があつたか否かに付ての被告等の(一)の主張に付審究する。被告岡田が昭和二十三年九月中東京都方面に転勤するからとの理由で賃借権譲渡の承諾を求めたのに対し、原告及び其の母シズヨは当初之を拒絶し、次で之を承諾し、更に右承諾を撤回する旨の意思表示を為した事実及び此の間原告よりは同年十月九日附の書面を以て賃借権の譲渡転貸等を禁ずる旨の意思表示を為した事実は当事者間に争が無く、証人三浦正光、村上正久、山口慶太郎、湊貞子、湊シズヨの各証言を綜合すると、原告方は五人家族で原告の妻の実家の一室に居住し、兼てから明渡を求められて居り、転居先を探していた為被告岡田より賃借権譲渡の承諾を求められても勿論前記の如く之を拒絶したが右昭和二十三年十月九日附の書面を発送した後間もなく大阪府南河内郡藤井寺町方面に、移転先賃借の見込がついた為此の事実を告げて前認定の通り被告岡田に対し譲渡承諾の意思表示を為し此の承諾の代償として原告の移転料の一部を同被告に負担させる交渉を為したところ其の後右賃借が不可能となつた為更に此の事情を述べて同被告に右承諾の撤回の意思表示を為したもので其の日時は同月末頃であつたこと並に其の際は同被告が未だ賃借権の譲受人を物色中で、被告入江との間に譲渡契約の具体化したのは右撤回の意思表示の後のことであり、右譲渡契約が成立して被告入江が此の建物に移転したのは同年十一月下旬であつたこと及び原告は被告岡田が此の建物より退去し被告入江が居住している事実は数日後に始めて知つたものであることが認められ、以上の認定に反する被告岡田宗一本人の供述は前掲各証拠に比べると直ちに信用出来ず、他に被告等に有利の認定をするに足る証拠は無いから、被告等主張の様に原告の撤回申出の当時被告岡田が被告入江との間に譲渡契約を結び代金の一部をすでに受取つていたという事実を認定することは出来ない。
而して民法第六百十二条所定の賃借権譲渡に付ての賃貸人の承諾なるものは通常の契約の申込に対する承諾とは其の性質を異にし、賃借人以外の第三者をして目的物を使用せしめることの許諾若くは許可という単独行為であり、此の承諾は相手方の同意のある場合之を撤回し得ること勿論であるが、本件に於て被告岡田は勿論之に同意しなかつたものと認めるべきである。併し一旦承諾を為した以上相手方が同意せぬ限り如何なる理由があつても之を撤回出来ぬと解することは賃貸人に酷に過ぎるものであつて、例えば賃借人が賃貸人より承諾を受けたことに基いて、すでに他人と譲渡契約を締結し或は締結の段階に至らずとも之に近い程度に具体化しているような場合は賃貸人に於て当初の承諾を撤回することは著しく賃借人の利益を害するから固より之を許すべきでないが、之に反し未だ譲渡の交渉が右の程度に具体化せぬ以前に於て賃貸人側に真に先の承諾を撤回せねばならぬような事情の発生した場合は、賃借人としては承諾による譲渡の期待が失われる結果を来すけれども右撤回を忍容せねばならぬものと解するのが相当であり、結局右撤回を許すか否かの判断に付ては当事者双方の利害関係を公平に比較した上で賃貸人側に承諾を撤回するに付ての相当の理由があるか否かにより之を決すべきものと解する所が本件に於ては原告より撤回の意思表示を為した当時に於ては先に認定した通り被告等の間の譲渡の交渉は未だ全く為されていなかつたのであり、而も賃借権の譲渡を賃貸人が承諾するということは現下の住宅事情に於ては極めて少い事例であるに拘らず、本件の原告は他に自己の転居先が見付かつたからとの理由を告げて特に承諾を為したものであり、而して其の後に於て右転居先が賃借出来なくなつたこと之亦前認定の如くであるから、斯様な状況の下に於ては原告に於て先に為した承諾を撤回するに付相当の理由があるものと認むべきであつて、被告岡田が其の後被告入江に賃借権を譲渡して当初の原告の承諾の効力の存続を主張することは失当と謂わねばならない。従つて被告等の(一)の主張は詐欺を理由とする原告の取消の主張に付考える迄もなく之を採用しない。
進んで被告等の(二)の主張に付て考えるに、被告入江の賃借権譲受の後本件に付調停手続が為されたが不調に終つたので原告が昭和二十四年四月十一日附翌日到達の書面を以て被告岡田に対し原告主張の賃貸借契約解除の意思表示を為したことは当事者間に争が無い。而して原告が戦時中、其の所有の本件二戸建一棟を被告岡田及び訴外高野某に賃貸して現住所に疎開した為空襲に際し防衛に当つたのは専ら賃借人等であつたことは想像に難くないところであり、従て被告岡田が引続き本件建物に居住しているものと仮定した場合原告が借家法第一条ノ二に所謂正当の事由に基いて明渡を求めることは著しく困難であることも被告等主張の通りである。更に原告が自己の転居先の賃借契約が確定せぬうちに被告岡田に対し賃借権の譲渡を承諾した為間もなく之を撤回するの已むなきに至つたことも軽卒の譏を免れないところである。併し乍ら飜て考えると、被告岡田が原告より前記の理由の下に撤回の申出を受けた際は未だ賃借権譲受人の確定していないときで尚物色中であつたこと前認定の通りであるから原告から叙上の経過で撤回の申出があつた以上不服乍らもそれ以上譲受人を探すことを差控えるのが当然であるに拘らず一旦原告の承諾を得てあるからとて、敢て被告入江に譲渡して原告の知らぬ間に転居し被告入江を之に居住せしめたことにも納得し難いものがあると謂わねばならない。又現今家主の承諾なくして賃借権を譲受けた為事後に於て紛争を生じた例は枚挙に暇の無い程であるに拘らず、被告入江が被告岡田より原告の承諾があると聞いただけで之を信頼し直接原告の意思を確める処置をとらずに被告岡田に多額の金員を支払つて賃借権を譲受けたことも亦軽卒である。以上に認定したような当事者双方の色々な事情を比較考慮するときは原告が先に為した承諾を撤回して被告等に対し明渡を求めることを信義誠実の原則に反し、権利の濫用であると謂うことも出来ないから被告等の(二)の主張も之を採用しない。
従て被告岡田は原告に対し賃借建物返還の義務があり、又被告入江も何等正当の権原なくして原告の所有権を侵害しいずれも原告に対し賃料相当の損害を被らしめているものと認めるべきであり、本件建物の昭和二十三年十一月一日以降の賃料の支払に付ても被告等は何等主張立証しないから、被告等に対し右建物の明渡を求めると共に被告岡田に対しては前同日以降昭和二十四年四月十二日迄一ケ月金四百六円二十五銭の割合による賃料及び其の翌日以降明渡済迄之と同額の損害金支払を求め被告入江に対しては右建物の居住を始めた日の後である同年十二月一日以降明渡済迄右と同率の損害金の支払を求める原告の請求を正当として認容し、訴訟費用の負担に付民事訴訟法第八十九条第九十三条第一項本文、仮執行の宣言に付同法第百九十六条を各適用し主文の通り判決する。
(裁判官 沢井種雄)